何を言うか、何を言わないか

この記事は別段面白くなく、私が半分キレながら、半分ふざけながら適当に文章を書いているだけなので読まなくてよいと思われます。皆さんの時間を無駄にしないために最初に書いておきます。

こうやってブログを書いていると、ありがたいことに多くの人から反応を貰えて嬉しいです。が、中には批判的な内容だったりただの暴言だったりみたいなことがある訳ですよ。別に批判すんなとは言いません。何を思ってそれをどう表現するかっていうのは、自分でケツ拭けるなら自由だと思っています。思想・良心、表現、言論、いずれも自由です。でも批判にすらなっていないただの中傷とかをね、しかもわざわざメンション付けたり引用リツイートしたりして、私に明示的に通知が来るように飛ばしてくる輩がたまにいます。それ嫌がらせ以上の意味あるんですかね?お前の人生の何パーセントか知らんけど、そんな非生産的なことに費やしていいんか?と思うこともある訳です。私が心配することでもないんですけども。何か言いたくなったらいちいちメンション付けずに私みたいにチラシの裏にでも書いておけばよろしい。で、タイムカプセルに埋めて20年後に掘り出した後に「当時はこんなこと思ってたなぁ…」と懐かしんでエモくなるなどすればよろしい。と思う訳ですよ。だって嫌いな奴に「お前嫌い!」と言っても何も変わらないでしょう。以前Twitterで「『休日は有名人とかにクソリプとか送って過ごしてる』って聞いてドン引きした」みたいなツイートを見た記憶がありますが、何かを攻撃し続けていないと自分を保てない人もいるんだと思います。別にそういう生き方を否定する訳ではありませんが、でもその悪意をこちらに向けられると迷惑です。そういう人は自分に芯がないのでだろうと思います。

そもそも自分の人生が充実していて幸福であれば他人に対して攻撃することなんてないですからね。誰かから攻撃されてその防衛をするのであれば分かりますが、めちゃくちゃ幸せ!毎日がエブリデイ!力こそパワー!みたいな人が積極的に他人を攻撃するメリットなんてないんですよ。言い換えれば心の隙間を埋めるために他人に対して攻撃的・排他的になるともいえますな。私は心理学に詳しい訳でもないので完全に個人の予想ですけど。

で、まぁ私がブログで表明した個人のお気持ちになんやかんや突っかかってくる輩1に対しては「うるせーバカ」の一言で済む話ではあるものの、まぁ書かなくていいことをいちいち書いた私も0.01パーセントくらいは悪いかもしれません。私の文章を見て不快な気持ちになった方がいらっしゃいましたら謝罪します。不快な気持ちにさせてしまい、すみませんでした。私の文章は特に誰にも配慮せず、このブログという盛大なチラシの裏に書き殴っているものがほとんどなのでたまたま運悪く目撃して不快になった方には本当に申し訳ないです。

でまぁ、私はこんな感じで見聞きしたものごとに対してお気持ちを表明するような、何か一言言いたくなるマン/ウーマンなのですが、というかマンなのですが、最近はどうも、それも微妙だなと思い始めました。結局何かに対して愚痴っていたりキレていたりというのは見ている人は面白くないしイライラとか不安みたいなネガティブな気持ちって伝染する(と思っている)し、メリットなんて何一つないと最近は思います。よほど面白い文章でエンタメに昇華できるならまだしも、そういうことは今の私にはできません。書いてる時と公開した直後、あと肯定的な反応があった時に私が気持ちよくなるだけみたいなそういうささやかなメリットしかないと思います。

私はよく自分の記事で「誰かの同意を求めている訳ではありません」と書いています。これは紛れもない本心なのですが、それでも肯定的な反応は嬉しいものです。でもそうやってヨイショされてどんどん過激なことを発信するようになっちまいそうで怖いんですよね。この間もとある人が「そんなつもりなかったのに政治的な愚痴がどんどんヨイショされているうちに過激発言を繰り返すようになってトラブルに発展した」みたいなことを書いていらっしゃって、その時は「いや~インターネットって本当に怖いですねぇ!」と思っていたんですが、いよいよ他人事ではなくなって参りました。私ももうその瀬戸際にいますし、なんならケツに火が付いているかもしれません。これは非常にマズい。ただでさえインターネット上の立ち回りが苦手なのに、こんなしょーもないことで人生削られたらたまったもんじゃないです。しかも何が爆弾になるかも分かりません。上記の例のようにいきなり拡散されて絡まれることもあるかもしれん。

変な言い方だがこれはとても割に合わないと思います。私も意図的に誰かを傷つけようと思って文章や絵などの創作物を世に出すつもりはありません。今まで私の配慮が及ばず結果的に相手を傷つけたことは何度もありますが、私の根底にあるポリシーとしてはそんな感じです。にもかかわらず私の表現したもので誰かが傷ついてしまったらそれはとても不幸なマッチングだと思います。

これは別に受け取り手の感性が一方的におかしいとは思いません。私の感性が一方的におかしいということもないつもりでいます。ただタイミングとか運が悪く拗れてしまうことだってありますし、その亀裂が大きくなってしまうこともあります。そして本来関係ない人まで傷つけてしまったり、私自身が必要以上に傷つく可能性だってあります。メッセージを届けたい人の範囲を大きく超えてしまうこともたくさんあります。表現上のトラブルって「多くの人を傷つけてしまい」みたいな文言がやたら出てきますが、まぁそりゃそんな表明の場で自分のケアなんて書けません。書けませんしふつうは書きませんが、でももちろん発信する側も傷ついてんですよね。そこをしっかり考慮すべきだと思います。都合のいいことを言わせてもらえばね。そうやって自分も周りも削りながらネガティブで大きな話題になってしまうのは不本意だし、何かを発信した者として私に道義的責任が生じてしまいます。こういう言い方も良くないかもしれないが、そんな予想できないトラブル上での責任なんて負いたくないんですよね。創作活動って本来楽しむものですし。

ということで前置きが長くなりましたが、私は表現者として甘かったと反省しています。上記の件だけじゃなくて他にも色々とあるのですが、ブログやTwitterに関しては特に「何を言うか、何を言わないか」が大事だと思いました。何を言うのも、何を言わないのも自由ではあります。自由であることは素晴らしいことですが、責任を伴います。責任が発生するという負の面を無視して自由であることの素晴らしい面だけを享受しようとするのではいつまでたってもガキのままであるとも思います。

よく「好きなアーティストが政治的発言しててがっかりした。そんな一面知りたくなかった…」などという話を見聞きしますが、これは別に有名人ではなくてもそういうケースがあると思うんだよな。たとえばTwitterで素敵な写真を撮って公開している某アカウントがありますが、その人がヴィーガンの方に対してお肉の写真をつけてリプを送ったりしていることを目撃したことがあります。ヴィーガンに関しては色々な意見があるのでしょうが、相容れないなら関わらないでおきゃいいのに、自分が気に入らない・バカにしても良いと判断した相手に嫌がらせをするのは幼稚であると個人的には思います。相手への冒涜だとはっきり思いますね。相手には相手の哲学があり、それは尊重されるべきではないでしょうか。自分が「肉を食べる」ことを尊重してほしいと思うのであれば、相手の「肉は食べない」というポリシーは尊重すべきであると私は思う。相手のことを尊重しないのであれば、それはイコール、自分のことも尊重していただかなくても結構ですと言っているのに等しいと思います。何か攻撃されたりした時に適切な範囲内で反論するのではれば分かるのですが、そうでない時に相手を揶揄したりするのは幼稚に感じます。なんで積極的に喧嘩しようとアクションを起こすのでしょうか。そういうところを見て幻滅することも今まで何度もありました。

もちろんそれだけをもってその人の人格を決めつけるのは早計ではありますが、それほどショッキングな出来事であったのもまた事実なのです。別にヴィーガンの人に対して嫌がらせをするのも本人のモラルが許すなら勝手にしろよとは思いますよ。そして私が学級委員長のようにしゃしゃり出て「なんでそんなことするんですか?わざわざ嫌がらせする必要ないじゃないですか」と「私の中の正義」を説くのはあまりにも的外れであると思います。自他ともにメリットがない。メリットがないことはやらないに限ります。

言いたいことをズバズバ言うのも結構であると思います。そうやってヨイショされて歪なモンスターになるのも自由です。ならない可能性だってあります。私自身は、ちょっととそういう手に負えないモンスターになりつつあるな…と思いました。でも私は客観的に「自分がこうなりたい」みたいな将来像を想像してみた時に、なんかそういう人にはなりたくないと思いました。私も言いたいことはできるだけブログで書くようにしています。それは、こんなブログ誰も読まんと思っているからというのもあります。が、ありがたいことに私が思っているよりも本ブログは読まれているようです。ブログを書いていると話題性とかのためにホットなトピックに食いついたりすることもありますが、そういうのも、もうやめようと思います。この間も京王線の事件で犯人叩きがあまりにもTwitterで多く見られたので「気持ちは分かるけどそうじゃねぇだろ」という記事を勢いで書いてしまいましたが、それも早計であったと今は思います。

テンポよくコンテンツを発信していくのはいち創作者としてはある種憧れる面もあります。でも最近は、そうやって雑に発信していくよりは自分の表現におかしいところはないか、自分が伝えたい事と自分が表現したことに齟齬はないか、そういうのを見つめなおす方が大事だと感じるようになりました。自分が伝えたいことを発信できなくなったのであれば、それはクリエイター・表現者としては死に等しいとすら思います。

あるものごとに対してそれぞれがどう思うかなんて人それぞれなので、自分の意見を強調するあまり他の意見を貶すようなこともしてはいけないと思います。そういうことはしないように気を付けていますが、私が書いたすべての文章でそれが守られているかと問われれば正直自信はありません。「~と思います」という文や「個人的には~」、「~な気がする」といった文章が連続しているとちょっと幼稚な感じもしますし、予防線を張りすぎて面白みのない文章に感じると思っていました。だからバランスは気を付けていたのですが、あらぬ誤解を防ぐためなら今まで以上に事実と意見を区別して明記する必要があると感じました。もっと自分の表現に対して責任を持つべきだと思いました。単純に良い/悪いで二極化できる問題ばかりではないのに、軽々に結論付けたり、あるいは最初の印象だけで判断した結論ありきで文章を書いていくのもとても危険な行為だと思いました。

明らかに炎上している事象に対して高みから攻撃するのも行儀が悪いと思いました。叩かれている人に追加で石を投げるなんて誰でもできることです。誰でもできることをわざわざ私がすることはないはずです。私にしかできないことがきっとあるから私は創作活動をしています。よく「俺の絵は俺にしか描けない」と言っていますが、あれは強がりでも冗談でもなく、文字通り本気でそう思っています。そういうことに首を突っ込むにしても、双方の言い分を理解し、少なくとも寄り添って理解しようとし、客観的に自分はこう思うというのを表明することに価値があると思います。

ということで、冒頭で読まなくていいと書いたのでここまで読んでいる方はいないと思いますが、そんな感じです。今後はちょっと創作活動、とくにブログなどの文章においては細かく意識をアップデートしながら続けていこうと思います。全ての人を傷つけない表現はできないと思っていますが、ゼロに近づくよう努めていきたいなと思います。簡単には変わらないかもしれませんし今まで通りのスタンスが続いてしまうかもしれませんが、長い時間がかかっても少しずつでも変わっていければいいなと思っています。おわり。


  1. 批判の範囲を超えた中傷をメンション飛ばして来たり、問い合わせフォームとかに迷惑メッセージを送って荒らしてきた人たちのこと 

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