察するという文化

文化といっていいのかわかりませんが、とりあえず文化ということにしておこうと思います。
私は、この察するというのがとても苦手。出来なくはないし普段困っている訳ではないですが、たまにすごくストレスになります。もしかしたら私が社会不適合なだけかもしれませんが…。
ちょっと今日は私の悩みを吐き出してみます。というか愚痴かも。主に仕事関連の話です。

「アレやっといて」「コレよろしく」みたいなことを言われるのがすごく嫌です。定期的に発生する業務で、かつ、アレやコレが明確に一意に何のことかわかる場合であれば別になんとも思わないのですが、掛け持ちの仕事が複数ある状態で「アレお願い」とか言われても何のことか全然分からないです。

ふつう何か指示を出す時って認識の齟齬がないように、口頭だけじゃなくてメールやチャットで記録を残したり、曖昧な表現にならないようにするじゃないですか。だってやった後で「AのことじゃなくてBのことだったんだ!急いでやり直せ!」ってなったらやらせた方もやらされた方もすり減るし、時間などのリソースも勿体ないじゃないですか。

たいていの場合は不明瞭な指示をした後にやり直させるよりも、事前にちょっとコストを掛けてでも正確な指示をした方がコスト的な損失は少ないハズなんですけどね。

で、こういう話をすると「不明瞭な指示を受けて中途半端にやる方も悪い」みたいに言ってくる人もいるんですが、いやいや、もちろんちゃんと正確に指示を聞こうとしますよ。曖昧な点をハッキリさせようと質問しますよ。でもそしたら「そんなこともいちいち言わないとわからないのか」的な雰囲気を出すんですよ。というかひどい時は顔だけじゃなくて口に出してますよ。

そういえばドキュメントの類でもそうですよ。仕様書や設計書の類を見てるハズなのに具体的なことは全然わからないということがままあります。もちろん何事にも粒度はありますから、あらゆるモノを詳細に記載すべきとは思っていませんが、せめて伝える努力くらいしてくれと思います。この辺のドキュメントはこう書いてほしいみたいなノウハウもそのうち書いてみたいなとは思っていますが、それはまぁ置いておいて。

個人的にはBAD COMMUNICATIONの原因は八割くらいは発信者にあると思っています。双方だいたい同じくらいの語彙で伝わらないなら、ほとんどの場合は発信者側が悪いのではないでしょうか。私は何かを人へ指示する場合はできるだけ詳細に説明するよう心がけています(少なくとも業務上は)。

「なぜ子どもたちの論理力は育たないのか その原因は「察する文化」にある」という記事を読みました。この記事の内容に概ね同意します。私は日本国外で生活したことがないので、そういう意味では文化の多様性に触れたことがないです。が、なんとなく理解できるつもりではいます。そもそも人は本質的に違っていて、人が形成するコミュニティーにも違いが出るのは当然です。他の文化を蔑ろにするのは、つまり、「自分の文化も蔑ろにしてくださって構いません」と表明していることと同義だと思います。私は他人やその文化も考え方も最低限尊重するので、私や私の文化も考え方も最低限尊重してほしいな、FF外から失礼しないでほしいなと思っています。

で、そんな異文化どうしで健全に社会生活を行っていくうえではやはり約束(契約)が大事なので合って、察する余地がないくらい明確に意思表示をすることもそのための能力も大事だよなぁと思います。

一応察する文化のメリットもない訳ではなく、何も言わなくても伝わるとかそういう関係性それ自体には憧れます。素直にかっこいいなと思います。
あと日常生活では別にそんなに困ってなくて、家族や友人と遊ぶ時もそんなに気にしてないし腹も立たないし、私もあいまいな言い方をすることもあるかもしれません。察してよ…と思うこともあるかもしれません。直接言いにくいこととかもあるでしょう。それはダブルスタンダードなのではと思われるかもしれませんが、私は「ダブルスタンダードがいかなる状況においても常に必ず悪である」は思いません。

察する文化それ自体は嫌いですが、「察する能力」自体はあった方がいいとも思っています。共感能力ともいえるでしょうか。
ただ、受け手の「察する能力」に期待して曖昧な説明や指示をしたり、上手く伝わらなくて不機嫌になるのはやめてくれないかなーと思っているだけです。伝わらないのであれば自分の説明にどこか悪いところはないか、口頭がだめなら図示するなどより良い方法はないか、などを考慮してほしいと思っているだけです。

自分の説明能力の無さを人の理解力の無さにすり替えるみたいなことはやめていただきたい。業務命令を出すのであれば、その内容は他に解釈のしようのないくらいキッチリしたものであるべきだと思います。というか、普通にアレとかコレとかを言わなければ伝わる話なのにそれをしないというのは、それは単に日本語が不自由なのでは…(察し)