「フェミニストの話が食い違う理由」を読んで思ったこと

フェミニストの話が食い違う理由」を読んで思うところがあったので、私なりの意見を書いてみようと思う。
未読の方は上記記事を一度読んでいただきたい。
フェミニストについては色々と思うところがあるものの、それをブログで書くとなんかめんどくさくなりそうだなぁと思って避けてきたが、まあ率直な感想・意見として書いてみようと思う。ちなみにLGBT(Q/X/その他)に関する話は別の問題だと個人的には思っているのでここではしない。

そもそも私はフェミニストの基本思想については「人は性別によって不当に差別されるべきではないよね」みたいな意味で認識している。

これが正しいとすれば、この意見には賛成である。人は性別に限らず、人種や職業や立場、思想などの違いによって不当に差別されるべきではないと思っている。これは強く思っている。そもそも人は本質的に違う個体どうしがコミュニティーを形成している。そこで多少の文化などもあるかもしれないが、それは尊重していくべきだと思っている。なぜなら、他人を属性だけで不当に貶めることは「私も私の属性で判断して貶めてくださって構いません」と表明しているようなものだからだ。

たとえば「特定の人を差別する。その代わり自分が差別されるのも甘んじて受け入れる。」とかであれば、まだ筋は通ると思う(褒められたことではないとは思うが)。そうではなくて、「自分がは常に強者であり、他人は差別するけど自分が差別されるのは許さない」みたいな考えは到底理解できないし、もし身近にそういう思想の人がいたら私はそっと距離を置く。

しかし実際のところ私自身は上記の理由によって不当に差別されたことがないし、そう感じたこともない。もちろん差別しようと思うこともない。
なので、賛成というのは「現状歪な何かがあって、それを正さなきゃいけない!」と思っている程ではなく、「人は差別されるべきではない、まぁそりゃそうだよねー」くらいの感覚だ。

そしてポイントになってくるのが、強調した「不当に」という部分。不当に差別されるべきではないと思っているということは、正当なものもあると認識している。(差別ではなく区別というのが正しいかもしれない)
例えば、一般的に女性に比べて男性の方が筋力があるので、男性の方が力仕事に向いている傾向があるとは言えると思う。また、悩み相談などでも「女性は共感を求めて男性は結論や解決を求める。だから女性の話は論理的に効かないでとりあえず頷いておけ」みたいなことも良く聞く。これらを考慮して社会的な役割や接し方を分けるのは不当な差別にあたるだろうか?私はそうは思わない。正当なふるまいだと思う。もちろん筋力のある女性もいれば解決させるために相談する女性もいるだろう。あくまで一般的に、という話である。

ここまでで、

  • 性別によって差別されるべきではないよね
  • でも性差はあるのだからそこは考慮すべきだよね

という話をした。ここに共感できない方はここから先はあんまり面白くないので戻るのを推奨します。間違えても私にクソリプを送ったりすることのないよう。
何か文句があればチラシの裏にでも書いてタイムカプセルに埋めておいてください。

で、「性差があるのでそこは考慮すべき」という部分。この、「どのような性差があるか」「どの程度考慮すべきか」というのが個人レベルでバラバラなので、Aさんは差別していないつもりでもBさんは差別されたと受け止める部分もあるだろう。Aさんは性差を考慮しているつもりであっても、Bさんは考慮が足りないと感じることもあるだろう。この辺りはすごくデリケートな問題だと思う。そして万人が納得する基準やガイドラインを作るのも難しい。だって人はそれぞれ違うのだから。「こういう発言はセクハラです」「これは差別に値します」「ここまではセーフです、この先はアウトです」みたいなラインを一律に決められる訳がないと思う。

で、冒頭で紹介した記事にもある通り、「なぜ不快に感じるか」を論理的に説明しないと(できないと)問題は解決しないと思う。

規制側・フェミニスト側の人達は
「これを見て私の感情がマイナス方向に動いた」ということで社会的アクションの理由説明に十分だと考えています。

断言すべきではないとは思うが、私も概ねこのような印象を受ける。
私が不快に感じました!では何の説得力もない。言わずもがな社会というのは社会を構成する全員のものである。その社会に対して何かを変えたいのならば、それを社会構成員にジャッジしてもらう必要があると私は思う。

「私は不快に感じた。気に入らない」というのは、それはそれで事実なんだろう。だがよく考えてみてほしい。そもそも社会に対して全く不満のない人は多分いなくて、みんな大なり小なり何かしらを我慢しながら、うまく折り合いをつけて生きている。たとえば私も、どこもかしこも鬼滅ばっかで飽きてきたわ~、過剰だわ~、見飽きたわ~、興味ないし見たくないわ~と常々思っているけど、別に「#鬼滅の刃に反対します」みたいなハッシュタグを作って活動しようとも思わないし、同じ意見を募ろうとは思わない。

いやいや、鬼滅と性差別の話をごっちゃにするなと言いたいかもしれないが、そもそも例えば宇崎ちゃんの容姿や見せ方が過度に性的かなんて、それこそ主観の問題だ。これを見て性的に感じる人もいるだそうし、別に性的じゃないよねと考える人もいる。そして「性的だからポスターを撤去しろ!」と主観マシマシで表明しても「えっ?私は別に性的だと思わないし、撤去の必要性も感じないけど」と主観マシマシで反論され、「ムッキー!!女性の尊厳が傷ついているんですよ!」と主張しても「絵じゃん。実在女性の何が傷つくの?」と反論され、「ムッキー!!!!私はこんなに不快なのに何も分かってくれない!日本死ね!」となるんだろう。

ハッキリ言って、それは説明することをサボっている。何かを変えようと思うなら自分の本意がどこにあるのか、それに正当性はあるのかというのを客観的に判断しなければならない。そしてそれを論理的に表明する必要があると思う。認識の齟齬が発生するのを防ぐために、「誰が聞いてもそうとしか解釈できない表現」を探すことも大切だろう。もちろん、そのような論理展開をしている人もいるにはいるが。

あと、これはあくまで私の印象だが、自分の頭で考えてない人が多い気がする。発信力のあるフェミニストが何かを主張したら、「そうだそうだ!」と言う取り巻きが湧いてきている印象がある。そういう人たちは、「この問題について深く考えていないし考えるつもりはないけど、とりあえず著名な女性活動家が言ってることだし応援しとこ」みたいなスタンスの人もいると思う。だって自分の頭で考えてたら「〇〇は不快です!」以外の意見ってもっと出るはずだよね?具体的に何が嫌なのか問うても、「〇〇さんが全て表明してくださっています」みたいな、開いた口が塞がらないような言も出てくる。

自分で考えるのが大事」という記事でも書いたが、発言は自分で考えて行うべきだ。誰かの意見を受け売りで発信していても、いざ間違っていた時に誰も何の責任もとってくれない。それに、筋肉もそうだが使っていない部分はどんどん衰えてくる。するとどんどん論理的思考能力はなくなっていき、自分の発言の説得力はなくなっていく。するとどうなるか。自分の意見が誰にも届かないので余計にイライラして、幸せそうなママタレントがブログ更新しただけで否定的な書き込みをしたくなってくる。「あなたも本当は女性というだけで差別されているはずなのに迎合して幸せアピールを無理してまでやらなくていいよ」みたいな決めつけをするようになる(この辺は私の想像)。ああ嘆かわしい。

また冒頭の記事から引用するが、

自他の境界があいまいであるとか、
自分の感情を客観的に捉える能力がないとか、
そのために感情が動くたびに大問題が起きたと感じてしまうとか、
そのために”大問題”を他者に通じるコードで言語化することが出来ないとか、
そのような煩悶に真剣に苦しんでおられると思います。 

というのはとても的を射ていると思う。人は本質的に違う癖に面倒くさがりだから、自分で考えることをしたくない。だから「分かるでしょ、察してよ」となるのだが、残念ながら議論の場ではそれは通用しない。「受け手の読解力/理解力/共感能力がない」というのは通用しない。ないのは発信側の説明能力とか論理的思考能力だ。なぜそう思うかを表明できないならば、できるように訓練するしかないんだ。この辺の話は「察するという文化」でも書いた。

長くなったのでまとめると、私の意見としてはこんな感じ。

  • 男女差別ってよくないよね
  • でも性差はあるのだから、当然区別されるべきだよね
  • 性差や区別をどう認識するかは人それぞれだけど、とりあえず今の社会基盤は成り立ってるよね
  • 不満があるから変えたいというのはとても良いことだと思うけど、ちゃんと説明して説得できないとだめだよね
  • そのためには自分と向き合って論理的に説明できないとだめだよね
  • だから自分で考えないとだめだよね

以上です。
上記はあくまで私個人のいち意見であり、これが正しいとも、こうあるべきとも、誰かに共感してほしいとも思ってません。と追記しておく。